快楽の精算       一条きらら
                              
 男と一緒にベッドに入りながら、
(今夜は、燃えない演技をしよう)
 と、麻奈美は胸の中で呟いた。別れようとしている男に、未練を感じさせないためだった。
 今夜を最後に、不倫関係を終りにする。
 別れの記念旅行ということで、大森省一と一緒に、香港で三日間を過ごすことになった。
 二年間の不倫関係を続けて、別れを切り出した麻奈美に、大森省一は会社の夏休みの三日間、香港旅行へ行くことを条件に承知したのだ。
 東京から香港まで四時間足らずのフライト中、大森は麻奈美の手を握りっ放しだった。
 大森が予約したホテルは、そう高級というわけでもない三つ星ホテル。
 ビクトリア・ピーク・タワーや、香港動植物公園の近くにある。
 以前、彼が来たことのあるホテルらしかった。
 到着したその日の夜、香港島のヴィクトリア・ピークからの夜景を眺めながら、大森は麻奈美の顔ばかり見つめていた。
 翌日は、博物館や展望台、香港ディズニーランドへ出かけた。
 どこへ行っても麻奈美は、
(この旅行さえ終われば、揉めることもなく、彼と別れられる……)
 そう胸の中で呟き、大森には作り笑顔を見せた。 
 レストランで広東料理や飲茶を味わいながらも、大森は時々、テーブルの上の麻奈美の手を、思い入れたっぷりに握り締めてくる。       
 本当は麻奈美は、数日間でも、大森省一と旅行などしたくなかった。
 いつものようにラブホテルで会って、
「今夜が、最後ね。お別れするのは寂しいけど、あたしたちの愛は不毛の愛。これが運命なのね」
 と、彼の胸に顔を埋めて、悲しそうな演技をしてみせ、
「きみが結婚して幸せになるなら、ぼくは黙って身を引くよ。遠くから君の幸福を祈ってる」
 大森がそう言ってやさしく抱き締めてくれる、そんなシーンを想像していたのだった。
 四十歳の大森には、妻子がいる。
 二十六歳の麻奈美は、三つ年上の恋人ができて、結婚することになった。
 すんなりと不倫関係にピリオドを打てる、はずだった。
 ところが大森は、麻奈美と別れる意志がないと告げたのだ。
「年齢の差が何だ、不倫がどうだっていうんだ、僕と麻奈美ちゃんはこんなに愛し合ってるのに、別れることはないじゃないか」
 そう言うのである。
 麻奈美は、愕然としたような気持ちだった。
 大森は、麻奈美が勤める会社の取引先の部長である。
 以前から大森は、麻奈美が結婚することになったら嫉妬するだろうけど、僕は反対できない立場の男だからな、と言っていたのである。                   〈続く〉


 

戻 る