誘惑の淫夢       一条きらら

 やったわ、と亜由美は飛び跳ねたくなるほど、うれしかった。
 とうとう、麻布に引っ越して来た──。
 港区麻布である。
 江東区の賃貸マンションに、十年近く住んでいた亜由美が、港区の住人になるなんて、以前は考えられないことだった。
 三か月間、インターネットで探したり、あちこちの不動産店へも行って、ようやく見つけた物件である。
 港区麻布のワンルーム・マンション──。
 春の引っ越しシーズンである。
 転勤だの大学入学だの単身赴任だの結婚だのと、一年間で最も引っ越しが多くなる時期だった。
(あたしみたいな理由で引っ越す人間て、そう、いないでしょうね……)
 うふ、と亜由美は思わず、含み笑った。
 亜由美の引っ越しの理由は、大半の人たちと違っていた。
 どうしても、この辺りでなければならない事情が、あるのだった。
 港区麻布三丁目──。
 都内でも、この辺りは高級住宅地で、家賃も高額である。
 三十一歳の派遣社員の亜由美にとって、給料から無理なく支払える、比較的安い家賃のワンルーム・マンションを見つけ出すのは至難の業だった。
 土曜日の夕方近く、亜由美は、作業を終えた引っ越し業者に、代金をキャッシュで支払った。
 部屋の片づけもそこそこに、ドアに鍵をかけて部屋を出る。
 弾む足取りは、自然に、ある建物を目指す。
 道順は、ちゃんと知っている。そこから歩いて、五分ほど──。
(それにしても、こんな近くに住めちゃうなんて……!)
 浮き浮きワクワクするこの喜びを、誰かに伝えたい。
 亜由美はポシェットから、携帯電話を取り出した。
 会社の同僚で、親しくしている中山早百合に電話をかける。
「はいはい」
 と、軽いノリの早百合の声。もちろん亜由美の番号を登録してあるから、すぐに出たのだ。
 かけて来た相手が男性だと、焦らしてなかなか電話に出ないのが、彼女の癖だった。
「ねえ、とうとう引っ越して来ちゃったわ。麻布三丁目のマンション!」
 キャハハッと幸福のあまり、笑い出したくなるのをこらえて、亜由美は弾んだ足取りのまま、早百合の反応を待った。
 彼女だけには、引っ越しの理由も予定も話してある。
「あら、そう。お引っ越し、おめでとう。悪いけど、片付けの手伝いには行けないわよ。わたし、これから出かけるの」
 素っ気ない口調で、早百合が言った。
 亜由美は別に、気にしなかった。
「わかってるわかってる、彼氏とデートでしょ? それより、あたし今、歩きながら電話してるのよ。ねえねえ、どこ歩いてると思う?」
「どこって、道路を歩いてるみたいな感じだけど」
 たいして関心もないといった口ぶりである。
「ただの道路じゃないのよ。御園正樹(みそのまさき)さま、あたしの正樹さまが住んでいる超高級マンションへ通じている道。ああ、夢みたい。あたしのマンションから、こんな近くに憧れの正樹さまが住んでるなんて!」
 御園正樹のことを、亜由美は『正樹さま』と呼んでいる。
 難関のT大を卒業後、K省の官僚になって二年、あっさりと退職して、ホストクラブのホストに転身、スカウトされて映画俳優になった御園正樹に、亜由美は一年前から夢中なのだった。           〈続く〉
         

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