溺れた未亡人       一条きらら

 どこかで、小さな音のベルが鳴っている。
 眠りの底から浮かび上がりながら、美菜子は目を閉じたまま、その音が電話のベルと気づいた。
 電話が鳴っているのは、この寝室ではなかった。階下にあるリビングルームである。
 熟睡中なら気づかない程度の小さな音だが、目を覚ます時刻であることと、静寂に満ちた家の中だから聞こえてくるのだった。
(何時かしら……)
 サイドテーブルのほうに向き直って、目覚まし時計に眼をやった。
 午前十一時を過ぎている。以前なら、家政婦が電話に出て、ベルの音はとうに止んでいるはずだった。
(この広い家に、わたし一人なんだわ……)
 まだ眠気の残る顔つきで、美菜子はゆっくりと瞼を開ける。
 家政婦をやめさせたのは、九か月前に夫が亡くなった後だった。
 葬儀の慌ただしさが過ぎると、美菜子は虚脱感に襲われて、ウツ状態になってしまった。
 誰にも会いたくない、言葉も交わしたくない、行きたい所もない、外出もしたくない……。
 夫が生きていた時のような、来客や外出の用事も激減していた。
 家の中のことをするのに美菜子一人で充分なので、家政婦に来てもらう必要もなくなったのである。
 一日中、一人で過ごす日が多くなり、他人と顔を合わせるのが次第に苦痛になった。
 四十九日の法事の時も、宴席での最中、めまいを起こして気分が悪くなり、退席してしまった。
 三十七歳で未亡人になった美菜子に、誰もが同情してくれて、退席を咎(とが)められることもなかった。
 亡夫の多額の遺産を相続したが、トラブルが起こることもなかった。
 結婚生活は八年半。夫は十歳年上。子供はいなかった。
 美菜子がウツ状態になったのは、愛していた夫の死による悲しみからではなかった。
 この年齢で未亡人になってしまった――という絶望感からでもなかった。
 夫の死の直前の状況が、激しいショックだったのである。
 亡くなった原因は、急性心不全。
 救急車で運ばれ、病院で息を引き取った。
 救急車を呼んだのは、美菜子ではなかった。
 深夜、見知らぬ女性から電話がかかってきて、そのことを知らされたのである。
「ご主人が救急車で、K病院に、運ばれました! すぐ、行って下さい!」
 昂奮した女の声が、受話器から流れてきて、美菜子は最初、間違いかと思った。
「こちらは藤島ですけど……」
 電話に出た時、名乗っているが、念を押すようにそう言った。
 すると、
「克之さん、K病院です!」
 女はそう言ったきり、一方的に電話を切った。『克之』は夫の名前である。美菜子は顔色を変え、気が動転したように慌てて病院に駆けつけた。   〈続く〉
  

 

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