魔性の肉体       一条きらら   

 夫が入院している病室のドアを、美登里は、そっと開けた。
「あなた……」
 足音をしのばせて歩き、小声で呼びかける。
 ベッドに寝て、窓側に顔を向けた夫が、眠っているかもしれないからである。
「うん……」
 と、夫の智也が返事をしてこちらを向き、瞼を開けて、弱々しく微笑した。
 総合病院の四階にある、小さな個室である。
 個室といっても、患者用ベッドと、見舞客用の椅子と、小さな冷蔵庫と小さな炊事場があるだけの、狭い部屋だった。
 美登里はベッドの横にしゃがみ込み、夫の手を取って、それに頬を押し当てた。
「寂しいわ、あなた……早く退院して」
 毎日、ここへ来ては、同じ言葉を繰り返す。
「ごめんよ……」
 智也が、美登里の頬を、髪を、やさしく撫でる。
 その言葉もしぐさも、いつもと同じだった。同じ言葉としぐさを、この病室で、二人は何度繰り返したかわからない。
 智也が入院して、今日で五日目。智也は会社で、会議中に、突然、倒れたのだった。
 救急車でこの病院に搬送され、入院することになった。
 過労とストレスが原因と、診断された。
 智也は四十二歳、美登里は三十三歳。結婚して七年である。
 美登里は、新婚時代と変わらずに、この世で一番、智也を愛していた。
 智也がいなければ生きて行けないくらい、深く深く愛しているのだった。
「毎晩、一人ぼっちで、寂しくて寂しくて眠れないの……」
 一人で寝るのは夫も同じだが、美登里は自分のほうがずっと寂しいのだと、この病室へ来るたび、そう言わずにいられなかった。
「あなたは男だから、一人だって平気なんでしょう?」
「ぼくだって、美登里を抱いて、ぐっすり寝たいよ」
「ほんとう? あたしを腕の中に抱いたほうが熟睡できるのね。あたしが傍にいないと、眠れないのね」
「もちろんさ」
「ああ、あなた、抱いて……!」
 美登里は立ち上がって、スリッパを脱ぎ、夫が寝ているベッドに素早く身をすべり込ませた。自宅のダブルベッドと違い、当然だが、狭くて窮屈なベッドである。
 それでも美登里は、衝動に駆られて、そうせずにはいられなかった。
 智也が壁ぎわに身体をずらし、横向きになって、美登里を柔らかく抱き締める。
「愛してるわ、キスして」
 美登里は軽く目を閉じた。  〈続く〉
   


戻 る