秘めやかな密戯       一条きらら

 まさかと真梨江は何度も呟いた。青天の霹靂(へきれき)とは、このことを言うのだと思った。
 夫が、浮気している。冗談でしょうと言いたくなるほど、すぐには信じられなかった。
 けれど、それが本当のことだと知らされたのである。
「ご主人、浮気してますよー」
 笑いを含んだ女の声で、深夜、電話がかかってきたのが最初だった。
 二十代か三十代か、年齢はわからないが、初めて聞く女の声である。
「まさか」
 思わず、そう応じて、真梨江は笑い飛ばしたくなった。
「ほんとですう。ご主人の上着のポケットの中に証拠があるわ。ハナエ・モリの花柄ハンカチ」
 相手はそう言うと、一方的に電話を切った。
(変な電話……)
(かけ間違いかも……)
 こちらの名前を確かめもしなかったし、自分も名乗らなかった。
 番号を間違えたか、または気まぐれ女の悪戯かもしれない――と、たいして気にもしなかった。
 三十分後に、夫が帰宅した。
 真梨江はベッドに入ってうとうとし始めたところだが、我慢して起きていった。
 深夜に帰宅すると夫は、空腹だと眠れない性分で、おにぎりかラーメンを食べたがるのである。
「お帰りなさい。お腹は?」
「すいてない」
「お風呂は?」
「面倒だ。寝る」
 夫は寝室に入ってパジャマに着替えると、洗面所へ向かった。
 真梨江は彼の脱いだスーツやネクタイを、クロゼットの中のハンガーにかけていった。
 クロゼットの扉を閉める手が、ふと、止まった。
(あの電話……悪戯か、かけ間違いに決まってる)
 そう思いながらも、濃紺の上着のポケットを探ってみた。
 車のキーや、駐車場や飲食店のレシートの他に……。
 何かの布が手に触れたので、取り出してみると――。
「嘘……!」
 思わず声に出して呟いた。ハナエ・モリの花柄ハンカチを眼にして、真梨江は茫然となった。
 そのハンカチは、真梨江の物ではなかった。   〈続く〉
                                     


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